文弱自転車

ロードバイクと文弱の価値

久しぶりのフィルムカメラ

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OLYMPUS OM2 ZUIKO50mm

これは一週間前に自転車でふらふらしているときに撮った写真。

15年くらい冷蔵庫で眠っていたネガフィルムを、譲り受けたOLYMPUS OM2にこれまた15年ぶりくらいに装填し撮った。

現像したネガフィルムをNikon Dfで接写し、RAW現像ソフトSYLKYPIXでJPEG画像にしたもの。このときネガフィルム反転ツールを利用し、少々トリミングをした。

ネガフィルムを入れるときの期待感、撮影を終えフィルムを出すときの、写っててくれといった気持ち、現像を待ちわびるそわそわとした感じ、これまた15年ぶりくらいだ。

古いカメラだから写っているか心配だったが、写っている。結構イメージした通りに写っている。

 

デジタル一眼レフカメラで撮るときも、レンズはマニュアルフォーカスの中古レンズを使っている。

先週はそれに輪をかけてフィルムカメラを持ち出したわけである。

理由は

マニュアルフォーカスでピントを慎重に合わせるピリピリした感じが好き。

カメラもレンズも手に持って操作するときも、眺めているときも、物としての存在感を感じていたいから。

の二つだろう。

 

ではなぜ、写真を撮っているのだろうか。

何かを表現したいからかな、と、思う。

最近ではロードバイクでの爽快さや楽しさなんかを表現してみたい。

地面から生きてくる名もない植物の強さとか面白さを表現しよう。

そうして何より、楽しい。

自転車と写真が一緒になればもっともっと楽しくなる。

 

今晩

飯沢耕太郎著 「写真美術館へようこそ 」講談社現代新書

を久しぶりに開いた。

 

プロローグに

時に写真家が思ってもみなかった、無意識の身構え方とでもいうべきものが写りこんでしまうこともあるということです。

このあたりはとても微妙なところで、面白くもありちょっと怖いところでもありますが、写真家が被写体に寄せる思いや感情(愛情とか、嫌悪とか、恐怖とか)が、写真に滲み出ているように思えることがよくある。

写真を見ていても背筋が寒くなることがよくあります。写真には意識よりも無意識の方がよく写ってしまう。

 

もしかするとそんな無意識を呼びこんでしまうようなあり方は、写真という表現手段そのものの特質といえるかもしれません。

  (飯沢耕太郎著「写真美術館へようこそ」講談社現代新書P6より)

 とある。

 

この本は10年位前に読んで、たまに開いて、今晩も開いた。

ここで、いろんな写真家を知った。

 

なかでも、ウジェーヌ・アジェが丹念に撮ったパリの写真にとても驚き、後日パリの写真集を買って、またまた心が動いた。

他に、真っ正面から捉えた数々のポートレートのすごさに感激した。

飯沢氏がプロローグで言ってるようなことを感じ、それぞれの写真家の、特に私はアジェのパリへの執拗さを強く感じ、情熱を感じた。

 

ただ、画質よく、きれいに撮れば良い写真とはいえず、

表現したい気持ちと、写真家の心情そのもが写真なのだろうと、思う。

粘り強く、真摯に対象と接し、ポートレートなら真っ正面から相対し、

町の風景でもしっかりと向き合って撮った写真もあるのだと、感じ入った。

 

この本との出会いから、写真の撮り方が変わったように思う。

 

人に説明するのが写真だと思っていたので、とにかく写し込もうと思っていた。

人が見てびっくりするのが写真だと思っていた。

これらと違う写真もあることに気づいた。

 

好きなものを撮り、肌からざわつくものに気持ちを入れて、写真を撮ってみよう思った。少なくともこんな気持ちでシャッターを押している。

 

今晩はロードバイクからかなり離れて写真ブログになってしまいました。

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