文弱自転車

ロードバイクと文弱の価値

月を見て風を感じロードバイクを愛でると詩や歌を思い出す

f:id:n_tatsuro:20201004205831j:plain

秋の気配の前のラレーCRF

スローパンクの後、チューブの交換はまだしていない

 先日のスローパンク後に撮った写真だが、よく見ると、落ち葉があり、色づいている葉も見える。この間まで暑くてどうしようもなかったのに、秋が来ている。

 パンクはそのままで直していない。ロードバイクで走るには良い季節だから、風を切ってロ走りたいから、次に休みにはチューブの交換をしよう。

 秋の入り口は中秋の名月だったり十五夜だったりして、秋を感じるきっかけはいろいろとある。はっきりと何月何日が十五夜だと、太陽暦の現代でははっきりとはできないが、周りが騒々しくなるから自然と秋だなと伝わってくる。こんな季節が良いのに、ロードバイクで走っていない。残念に思う。いま走ることができればきっと気持ちが良いに違いない。

文弱の由縁だろうか、古今和歌集の秋の歌を思い出す。

 机の上でこんな記事を書くのが、いまできることだけれど、やっぱり文弱なのかと自分を顧みる。形や言葉から入ってしまうところもあるので、やはり文弱だろう。そういうわけで、秋の和歌を思い出す。

秋来ぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞおどろかれぬる
   藤原敏行朝臣 古今和歌集 秋歌上


木の間よりもりくる月のかげ見れば心づくしの秋は来にけり
   よみ人しらず 古今和歌集 秋歌上

 いままで、何回くちずさんだことだろう。古今和歌集を本格的に読み始めて30年。秋は30回迎えているから、30遍はくだらないかな。

ロードバイクの恩恵

 どちらの歌も単に秋が来たことを感じただけではなく、暦の季節の秋を知った上で、風はほんの少しで、肌にはわずかに風を感じたけれど、やっぱり秋だとしているし、木の間からの月というが、木の下から見上げての月なのだろうが、はたして実際に見上げた月かどうか、まあ、どうでも良いのだが、それでも感覚としての秋が言葉によって再現されて、私の心は秋だねと頷く。言葉だけなのに響く。1000年前の言葉が響く。

 この言葉の響きを忘れずに大事にしまいながら、ロードバイクで走りたいと思う。このブログの目的でもある。

 ロードバイクそのものも、道具を愛でて整備をして磨くのも、体を動かしてスピードを出すのも、楽しい。その上に言葉がまとわりつくともっと楽しく、飽きてもこない。詩になった言葉は、歌になった言葉は、何度もつぶやくうちに根が生長し、その根で斜面が丈夫になってくるようなところもあるから、飽きもせずに何度も何度も口に出てくるのだろう。

 道具も近いかもしれない。道具も何度も何度も磨いてあげる。そうして大切なものになる。走る道具のロードバイクを磨くと不満や怒りは浮かんでこない。そんなことより、詩や歌や、先人が思ってきた思いが思い出されることの方が多い。

 今は机の上で秋の歌を思い出した。ロードバイク・ラレーCRFで走り出したら、また別のことどもを思い出すに違いない。体で感じる風と秋とは別の、心の中の感じることもできるのは、ロードバイクの恩恵なのです。

 タイヤのチューブはコンチネンタルを選んだけれど、パナレーサーのサイクルチューブでも良かった。

 

でも、コンチネンタルを選ぶ。

 

 はっきり言ってどちらでも良いのだが、パナレーサのチューブは透明の袋に入ってるだけ、一方コンチネンタルのチューブはきちんとオレンジの箱に入っている。パナレーサーは何だかチープと感じただけで、無論、パナレーサーのチューブが劣っているわけでもない。ただ、夢が欲しかっただけ。こんな理由で選んだしまった。

 ショップに持ち込まず、自らの手でチューブを交換しようと思い、オレンジの箱のコンチネンタルのチューブを選んだのも、ロードバイクでの詩や歌であろう。ロードバイクの恩恵です。


   (今日の写真データ)
   (Nikon Df Voigtländer58mm 1:1.4 ; F2.8 1/1000 ISO200)