ロードバイクに乗れないならと『尼僧の告白』を引っ張り出した。
雨雨コロナでなすところなくて、ロードバイクに乗れず、今日は過去の写真としよう。これは6年前の梅雨が明けたころ。
こんな時は遙かに昔の人々の声を聞くのも良いかもしれないと思って、古そうで、そして薄い本なので、ちょうど良いかなと、
中村元訳 『尼僧の告白―テーリーガーター』 (岩波文庫 青 327-2)
を引っ張り出した。
そのブッダの説かれる真理の教えを聞いて、私は出家して家の無い状態に入りました。師のことばにいそしみましたので、こよなくめでたい境地を現にさとりました。
世間の燈火であるブッダを見て、敬礼して、近づきました。かの眼ある人ブッダは、慈しみをたれて、わたしに真理の教えを説き示されました。
動揺することなく、比類なく、凡夫の実践しなかった真理の教えを、ブッダは、わたしに説き示されました。わたしの心は、それを楽しんでいるのです。
この、尊き師・ブッダは、ネーランジャラー河のほとりで、人々のあらゆる苦しみをのぞくために、人々に真理の教えを説き示しておられる。わたしは、かれのもとに行こう。かれは、わたしの師となってくださるであろう。
(中村元訳 『尼僧の告白―テーリーガーター』 (岩波文庫 青 327-2)P34〜65より)
古いといえば、訳者中村元氏によると、紀元前5世紀末から前3世紀中葉ころだろうという。
薄いといえば、100ページたらずで本の厚さは5mm。
2500年前に実際に語られた、仏教教団の尼僧のことばたち。染み入るような語りで、ブッダへの尊敬というか親しみがあふれて、こちらへ降りかかってくるような感じになってしまう。
遠い昔、仏教の初めのブッダは、こんなに人々に敬愛されたのですね。きっと、誰にでもわかるように優しく説き、その人自身から黙っていても出てきてしまう、なんといおうか、薫香みたいなもので、あれっ、いつの間にか納得している、のような感じだったなのかと、この『尼僧の告白』を読んで感じた。
まあ、仏教の古い経典だから、注釈や解説やらあるのだろうが、それは、今このときは、おいておきたくなる。なぜだかそんな感じなのだ。
厳密な解釈や思想上の理屈は今日は無用だね。