文弱自転車

ロードバイクと文弱の価値

”一顆明珠”を恋で悩むと勘違いした。

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Nikon Df Voigtländer58mm 1:1.4 ; F1.4 1/1250 ISO200

今日も雨のせいにして過去の写真です。

まだ十代の頃、とんでもない背伸びをして、中央公論社から出ていた「日本の思想」シリーズの道元の巻、「一顆明珠」という章を読んで、わかった気がしていた、という記憶がある。

初恋の記憶とともにある。

そんなに単純に理解できるはずもなかろうと、今では思うのであるが、とにかくひっくり返るかもしれないほどの背伸びをしてわかったつもりでいたのだった。これ、今でも同じかもしれない。

たとえ迷いの心でいっぱいであっても、それは一つの明るい珠、とでもわかった気でいたのかな。

なぜ背伸びをしたのかというと、初恋の人、片思いではある、その人が道元なんていう難しい本を読んでるらしいぞ、と、聞いたからだ。そこでは関心のないふりをして、日本の思想シリーズの道元の巻をこっそりと読んだのでした。

さて、その一顆明珠

石井恭二訳)

やがて仏道を会得してから後に、人に己の覚りを開示する言葉として云った、「諸相を尽く包み込んだ此の永遠なる世界は、そのまま一粒の明るい珠である」。


そうではあるが、我も汝も、どのような在り方が明珠であるか、どのような在り方が明珠でないのかが明らかでないままに、ああ思い、こう思いするうちに、明らかな考えを結んできたのだけれど、玄砂の普遍の真理を伝える言葉によって、明珠とはこうしたものとする心身の在りようをも聞き知り、明らめ得たからには、心とは明珠であり私念ではないのである、

生死起滅はそれが誰のものであろうと明珠であり、

明珠ではなかろうと取捨選択に煩悶することはないのだ。

たとえ迷い煩うとも、明珠にほかならいのだ、

明珠でないものがあって起こさせたい行いにも想念にもにも似てはいないのであるから、

ただまさに暗黒無明の世の進歩も退歩も、是一顆明珠であるほかはないのである。

 

(原文)

つひにみちをえてのち、人にしめすにいはく、「尽十方世界是一顆明珠」。

しかあれども、われもなんぢも、いかなるかこれ明珠、いかなるかこれ明珠にあらざるとしらざる百思百不思は、明々の草料をむすびきたれども、玄砂の法道にによりて、明珠なりける身心の様子をもききしり、あきらめつれば、心これわたくしにあらず、起滅をたれとしてか明珠なり、明珠にあらざると取捨にわづらはん。たとひたどりわづらふも、明珠にあらぬにあらず、明珠にあらぬがありておこさせける行にも念にもにてはあらざれば、ただまさに黒山鬼窟の進歩退歩、これ一顆明珠なるのみなり。
  (道元 石井恭二訳 『正法眼蔵〈1〉』 P224〜235より)

 

たしかに、迷いがあろうと一顆明珠と道元は書いている。

道元が著した『正法眼蔵』は禅語と是に関する逸話を種として書かれることが多いのであるが、ここでは玄砂という禅僧が尽十方世界一顆明珠と云ったことからはじまる

尽てなに? 十歩だろ、いや十方世界と書いてある。こんな難しい言葉と一緒の一顆の明るい珠なのであって、単に明るい珠のことを言ってはいない。

一顆の明るい珠は、見えるものを例示し、そのイメージを持たせて、そのイメージの明るいけれど小さい、それでも心惹かれるその珠だけど、なんだと思うかと、道元は言い始める。

尽くという場合、たいていの場合は、場所が全て、過去も未来も全て、という意味で、そんな巨大なものが一つの珠であるというのだが、こんなことが分かるはずもない。

たびたび道元は、そうなんだけれど、というところがある。わたしのような愚かな人への救いの手かもねと思ったりしている。

わかったとは言えないにしても、わかったつもりにはなれるかなと思う。

心は私の心ではなくて世界そのものであって、あれ、これわからないかも。わたしは踏ん張って思って、私は実体があるけれど、その実体とはそもそもなんなのだ、わからないだろうけれど実際に悩み苦しむわけだから、私なんだ、それでどうする、そこからだよ、と今は解釈している。それが明珠。

悩みがあっても、悟りもないけれど、それこそ一つの明るい珠なのだ、と、勝手に思っている。

昔は恋している悩んでいる心が、一つの明るい珠だ、と思っていたのだった。

少しは大人になったか、少年のままか、わからないが、『正法眼蔵』などという本を手元に置ける大人にはなったのだろう。

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