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ミル『自由論』をよみ、雑感。

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強烈な日差しで焼けている瓦


今日も気温が35℃になるとか。天気は良いのにな。安全のため今日もインドアとしよう。

昨晩、ミル 斉藤悦則訳 『自由論』 (光文社古典新訳文庫) を読み終えたので、忘れないうちに、その読後感を書こうと思う。

ミルは『自由論』のなかで、多数派の専制から個人の自由は守られるべきであって、その自由とは思想と言論を発表する自由なのだが、自由への干渉はどこまで許されるのか、と考えている。

思想と言論の自由が必要な根拠

ミルによると、思想と言論の自由を守る根拠は以下の四つである。

第一に、発表を封じられている意見は、もしかすると正しい意見かもしれない。

第二に、発表を封じられている意見は、やはりまちがった意見であっても、一部分の真理を含んでいるかもしれない。

第三に、世間で受け入れられている真理であり、しかも真理の全体であるとしても、熱心で活発な論争が許されない状態が続くと、またじっさいに論争がなされない状態が続くと、ほとんどの人にとってその意見は偏見とかわらないものとなる。

第四に、これも同じく自由な議論がなされない場合、自分の主義の意味さえわからなくなったり、ぼやけてしまう危険性がある。
  (ミル 斉藤悦則訳 自由論 (光文社古典新訳文庫) P128・129より)


ミルの立場

ミルはなぜ自由を守るのか、個人の自由のある社会は文明的で勝者となるからだと思えてならない。

例えば本書の中で、『自由論』が出版された頃の中国や東洋の国を見下している。その頃の東洋はヨーロッパの支配下に置かれ、アヘン戦争で中国は英国に侵略されている。
英国は強者であって、優れた社会と国家である。その理由は個人が自由であるから。このころダーウィンの進化論も出版されており、白人が最も進化した人類だとの考えが蔓延していたと思った。

こんな面もあると頭に入れて『自由論』は読むべきと思う。

自由論 (光文社古典新訳文庫)

自由論 (光文社古典新訳文庫)

  • 作者:ミル
  • 発売日: 2013/12/20
  • メディア: Kindle
 

自由な言論の効用とは

確かに、思想と言論の自由があるなら、その社会は活気に満ちるであろう。活発な議論には自由な発表が前提としてある。タブーな意見、信仰上の問題を含んでいても、自由な発表は必要である。

発表した個人を含む社会が、議論することにより、発表した個人が迫害されることがあったとしても、社会全体として発展したら良いだろうと、これは功利主義と呼ばれるそうだが、『自由論』はおおよそこんな論理によっている。

議論をする発端

なんで議論と自由がヨーロッパで起こったのだろうと思うのだが、本書にも度々、キリスト教という語が出てくる。キリスト教の本質等をいってるのではないのだが、こうも何度も出てくると理由があると思う。

カソリックプロテスタント、異端審問なども出てくる。同じキリスト教であるが、ミルは、同じキリスト教の立場で、つまり互いに論理は理解できるなかで、相手を非難したり、自説を述べたり、しまいには戦争に至ったり、ここは議論には当たらないが、互いに真剣に説明と争いをしたから、ヨーロッパは今の文明を築いたと言いたいのかもしれない。確かに、そうかもしれない。

その議論も今では、信仰上のことに限らず、性差、貧困、奴隷制などタブー視されている分野でも言論の自由を見ようとしている。そして議論するならば社会は発展する。

ミルは専制を拒否する

『自由論』の中でミルは、

  大衆(多数派)による専制

  国家や教会の権力による専制

  官僚による専制

を拒否している。

大衆による専制は、冒頭の根拠に示した第三・世の中の常識や雰囲気による、いつもと違う個人の意見や行動を押さえつけることである。また、皆とは違うから意見を差し控える雰囲気のことである。例えば女性が家事を引き受けるべきで、良妻賢母が女性の勤めであるといった意見である。こうなるような税制であり、どうしても雰囲気がある。こんなことに対して自由な発言を止めさせる事を、ミルは拒否する。

国家と教会による専制は、信仰の内容を考えることは害悪だとし、信仰による考え方を一本化したり、国家の教育によって一様な教育をして同じような人物を作り上げるのは社会の発展を妨げると、ミルは言う。

官僚による専制は、世の中の多くが国家事業であるときは、官僚の意見が正しいと思い込まされ、人々は考えることを止めてしまうから、社会は堕落すると、ミルは言う。

これらのことは、現実と照らし合わせると正しいと思う。

中国・東洋を見下すミルにもの申す

ミルは東洋と中国を見下していると前に書いた。東洋、中でも中国と韓国は儒教の国だと思う。儒教の国に自らの自由論を降りかざして、東洋は英国より劣ると言っている

儒教は社会の安定のために序列を作って、序列の上位にあるものには仁が必要だ、としている思想だと私は理解している。

この中の仁については哲学的な問題を含むが、基本的に支配を効率化するための論理だと考えている。仁によって民を導くため、常に学問をしろと個人の向上をひたすらに問い続ける。

しかし、その発展系として、中華の我々は仁によって高潔だから周辺民族を導いていく天から与えられた責任がある、天に逆らう事はできない。このような儒教の社会に自由論をかざしていると思うので、ここだけは私は否定したい。

儒教はその思想の成り立ち上、個人より社会の秩序を重んずるのだから、自由論による議論の活発化による思想の発展が遅れたことは事実だとは感じる。

それでも現代の中国からの科学技術の論文は米国をぬいて一位となった。韓国のエンターテイメントビジネスは好調だと思う。Kpopは心地よく響くし、韓国製ドラマも世界中で愛されてれいる。これも社会の発展だよね、ミルさん、と問いかけたい。

ミルは個人の思想と言論の自由によって、個人が意見を発表し、そのとき個人が批判されたりして大変なときもあるけれど、結果的に社会が発展するとの立場である。

中国では個人の自由より社会の秩序が勝るが、発展している。

自由を言い出す、その前に思想だと思う

自由という前に、社会を作る根っこは思想だと思うことも許されると思う。思想によって人は変わるし社会も変わる。

中国からの留学生はほんとに勉強する。一ヶ月で日本語を習得し日本で運転免許を直ぐに取っちゃうくらいに必死に勉強する。これは儒教の仁という考えではないかと思う

学問によって人は変わるという思想、仁を身につける学問をする雰囲気が世の中にあるからだと想像する。

個人の自由によって意見や思想を言い出すには、思想が息づいている必要があると感じる。いまはお盆であり、終戦記念日、私の中の思想と反省する心がもっと大切だと感じた。

お盆は仏事と関連するし、土着の考えもあるし、氏族や家の考えもある。
日本の社会には地に根付いた思想があるはずである。ヨーロッパキリスト教精神による議論をつくした思想とは違うとは思う。

大多数による個人の専制、言い換えると誹謗中傷は、社旗の幸福と発展には妨げとなるだろう。

国家による教育も見直して良いのかもしれない。女系天皇を考えるのも戦争に至った原因を議論するのに好機かとも思う。

でも、議論するのは良いのだが、言葉をつく背景の思想も整理していくのも大切と感じる。思想がないと、表面だけの言い争いになるだろうから。

ご先祖様が見ているとか、一顆明珠のような禅思想とか、悪人往生のような彼岸思想とかが大切なのでは思った。